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by watarajp

竹村牧男「インド仏教の歴史  「覚り」と≪空≫」

この本「インド仏教の歴史」を読んだのは、仏教に関心がいっているからだ。

特に釈迦の時代のことと、その後の仏教教団の変化(社会が変わっていくことに対しどうう対応するか?)・論争がとても興味深い。特に、出家集団としての教団が、在家をどう考えるか? 理念をどこまで追い求めるか?
これは、すべての宗教団体のみならず、政治団体も含めいかなる結社においても同じだと思う。
特に、部派仏教のように、釈迦のみを仏とするのに対し、大乗仏教が、それ以外も認めるとともに理念を深化していくのは重要だと思う。これらは、唱える人の「覚り」の経験に支えられるのは、とてもすばらしいことだと思う。

非現実的な宗教的といってもよい体験、経験というのは、ありうるし、そこまでいったかからこそ、宗教心を深めることができたのだろうから。

私事であるが、わたしも、妹の死(自殺)以降一週間くらい眠れなかった。そこでの経験なのですが、他人(家族・親族)の言ってないことを聞こえたりしたのです。このとき、自分がおかしいと(周りから言われて自覚した)いうとき、いろいろ堂々巡りの感情と思考のなかで大事なものが、子供(当時1歳の)と思うと同時に光に包まれた自分を感じたのです。

こんなわからない病的(不眠症による)経験、かつ不思議な体験後に自分自身が落ち着き始め、正気の世界に戻っていったようです。今では、そのときのものが、何なのかよくわかっていません。でもそれによって、なにかの変化を感じたのです。そういったつまらない体験の積み重ねが、宗教心といってもの心動くのではないかと思っています。

話は、戻りますが、私は、大乗仏教が語るように「利他」=「利己」的な考え方は好きです。ある意味、盲信につながりかねないのかもしれないけど、好きです。それは、利他的行為が自己の満足につながる世界に生きたいと思っているからです。

さらに「空」という考え方。これは、惹かれます。著者は、『般若経』『華厳経』『法華経』『無量寿経』これらをそれぞれ検討し、仏教思想の根本の「空」を諭しといています。
特に「縁起」というのは日常使う語であるけれど、深い意味と思いました。

「縁りて生ず」因果関係に条件(相依性・関係性)を持ち込む。しかもウィットンゲンシュタインの『哲学探究』を引用しながら、認識における『わたし』をどこに求めるのかという問題にもつながる。さらに言葉の限定性や矛盾そして、時間のパラドックス。すべて興味深いとともに、とことんまで宗教・哲学は考える思考することを実感する。ナーガールジュナの言葉に即しつつ。

筆者の言葉を引用すると、
「すでに過去は存在せず、未来も未だ存在し得ない。有るのは現在のみであるが、現在はまさにそこにある今であって、生じたり無になったり変化したりということのない世界である。」「この立場に立つと、時間の直線性は消えてしまう」

「結局、時間は直線的なある長さをもってつかめない。にもかかわらず、我々はとどまることなく、現在から現在へと移行していく。つねに現在に居つづけながら、景色は変わっていく。そこが我々の原点であろう」
「ここから見るとき、一切の言語表現が、事実を言い当ててない、虚妄的なものとなるのである」

ナーガルジュナの言葉で
「二つの真理によって、諸々のブッダは法(教え)をといた。世間世俗の真理と、勝義の真理とである。このふたつの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける神妙な真実を知らないのである。言語慣習に依らなくては、勝義の真理は示されない。勝義の真理に到達しないならば、涅槃は証得されない」

仏教修行については、核心は、知にある、という。
ナーガルジュナ
「悪を捨て、善を守ることが、繁栄をもたらす法であり、智慧によって執着をことごとく断つことが、至福にいたるほうであります。

以上の中観派となる大乗仏教にたいし、もうひとつの大乗仏教・瑜伽行派における唯識観は難しい。
「我々の世界は自己も含めて、感覚・知覚そのこと以外の何もない」「唯識の学は、いわば覚りへと導くための方便であり、決してそれ自体が、最終的な真理であるというわけではない。みずから、それは、究極の真理(勝義諦)ではなく、道理世俗(世俗諦だけれども一定の理論的な反省がなされた言語体系)だと自覚しているのである。」
「外界に、言語に対応した物が存在するかどうかは疑問であった。ただし、そもそも物があろうがなかろうが言語を立てる直接の対象は、我々の感覚によってとらえられた世界であるべきといううことであろう。我々は我々が見たもの・聞いたものに対して言語をたてるのである。見たもの聞いたものというのは、すなわり我々の主観に、心に映じたものである」
物は実在するのか?という問いに利根川進氏やハイゼルベルクの不確定性原理などの見解も出てきて、説明される。「主観からまったくの独立の客観は存在しない」
この言葉は意味深である。
「刹那刹那、五感等が現じては消え、現じては消えつつ、流れている。この感覚や知覚としてのただ識のみの世界にたいし、意識は言語によって分節化して秩序を形成し、そればかりか、その分節化に対応する実体としての存在を認めて、それに執着する。そこに根本的にさかさまの見方、顛倒妄想がある、と唯識はいうのである」

「唯識の理論によれば、我々の実質は、阿頼耶識に基ずく縁起のなかに生起してくる心王ー心所の複合体の刹那滅のなかの相続である。それを依他起性という。他者に依ってはじめてあり得る存在ということである。」「そしてその上に、実体として執著された物や我は、遍計所執性という。遍計所執性は。主として意識によって、言語を媒介に、永遠不滅の存在であるかのようにとらえられ、さらに執著されたものである」などなどたくさん引用したいが、自分の言葉でまだ語れないのが、もどかしい。
世界を語る自分は、世界を認識しうる社会的存在である自己を前提にしつつ、しかもそう前提しているゆえに無であり、空なのであろう。そしてそれを覚り超越することが、真理への道であり、その境地なのだと思う。

自分は、小さい我執の塊のような人間である。ミミッチイプライドがあったり、弱かったりする。でもそこから出発するしかないのだ。それを見つめ、智慧を持ち覚りを感じれたらと思う今日この頃です。
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by watarajp | 2011-04-06 11:12 | 読書