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by watarajp

読了「ヴェイユの言葉」富原眞弓編訳

ヴェイユいい。最高です。信者になりそうです。

ソフトな感じの中に熱さを感じます。「愛」とか「権力」については、とても敏感だ。

編者によって
Ⅰ 自己と他者
Ⅱ 神と必然
Ⅲ 悪・不幸・十字架
Ⅳ 力と社会
Ⅴ 正義と芸術
 
と分けられているがどれも秀逸。

Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、は私の哲学、宗教の興味分野とあいまって、とても面白い。
でもキリスト教って言う精神的バックは、理解しづらいとこれを読んで思うようになった。
唯一にして絶対的な神の存在「一神教」的な考え方は、実感がわかないから。

歓びは魂の本質的な欲求のひとつである。不幸にせよ倦怠にすぎぬことにせよ、歓びの欠如は一種の病気の状態であり、、そこでは知性も勇気も宥恕も失われている。それは仮死状態である。人間の思考は歓びを糧とするのだ。
快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。歓びは、内部からわきおころべきものだ。

根をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、最も無視されている欲求である。

この地上で現実的に目的としみなしうるものはひとつしかない。人格をある意味で超越するがゆえに目的たりうるもの、つまり集団的なものである。だからこそ、集団的なものはわたしたちを地上に縛り付ける。これぞあらゆる偶像崇拝の対象である。

神が不在であると知らなければならない。もっとも「わたし」が部分的にせよ破壊される稀有なる瞬間はべつである。神に近づいてもその接近によって「わたし」が破壊されずにすむと考えるものは神がなにものであるかをまったく知らない。神の不在をあらわにするいっさいは美しい。

この世界における一見いかにも明白な神の不在こそが神の実在である。万事においてそうなのだ。見かけで実在するものすべては非実在である。
見かけの存在は実在の充溢を有するが、あくまで見かけとしての実在にすぎない。見かけ以外のものとしては、誤謬でしかない。
 神が完全に欠落したものとしての世界はかみそのものである。
 善としてまったく異なるものとしての必然は善そのものである。
 それゆえ不幸におけるあらゆる慰めは神と真理を遠ざける。
 これぞ神秘のなかの神秘である。この神秘にふれるなら安心してよい。

魂の不死を信じるのでなく全生涯を死の瞬間にむけた準備とみなすこと。神を信じるのではなく、宇宙を愛すること。つねに変わらず、苦悶のただなかにあってさえも、母国(ポトリ)として愛すること。これが無神論を経由する信仰への道程である。

私たちは秩序を構築するが、恣意的にではない。ようするに、わたしたちが構築しないものすべて、私たちにとっては恣意的であり、なにが起こってもおかしくない。恣意性を排除するには、、もろもろの条件を把握せねばならない。
恣意性なきところにあらわれる不意打ちの驚き、これこそが実在が与える衝撃である。

無言で忍耐強い待望にまさる謙遜な態度はない。主人のいかなる命令にも、あるいは命令の不在にさえも心構えのできている奴隷の態度である。
待望とは流動状態にある思考の受動性である。
待望が時間を永遠に変容させる。


いろいろ引用しましたが、彼女のあくなき思考と神(?)への愛にはただただ恐れ入るばかりです。

(続く)
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by watarajp | 2011-04-08 13:07 | 読書