『魂』を扱うことの難しさを感じました。
自己と生死と存在、こういったことがこの筆者の文章に書かれ私には読みやすい印象がありました。この本に関しては、「魂」の理解が今までほどスッとしていない。ふと腑に落ちるような文章ではない気がしました。
精神と自意識の間のようなものととららえるのですが、少年Aの事件について分からないものは分からない、更正の見込みがない。古来から分からないこの残虐性に「鬼」として扱ってきた。
「心の闇」といって心理学的に精神医学的に分かるということが前提になっていることはおかしい。これらの発言に少し、違和感を感じました。
未成年の人権ウンヌンとか、死刑反対論者では私はないが、もちろん、少年Aの動向に違和感を感じるこそすれ、「鬼」で済ましていいのかという疑問がある。
確かに「バカの壁」ではないが、理解しようとしなければ理解できないし、理解しようとしても確実に理解できるわけではない。所詮、他人の頭の思考をいろんな角度から照射しわかった気になることしかできないのだから。本人にさえも分からない。
ここでの理解は、「無知の知」というより、他人を理解することの不可能性、のきがする。
でも人間らしくない感情、思考様式をする方々を、我々は一般に病人とする。彼は、回復不能な病人なのだろうか??
今彼は、名を変え、すべてを変え、社会人となっているのだろうか??もう世の中の関心が薄れてしまっているからこそ、狂気の犯罪少年Aのことは、生み出されるものなのだろうか??
オーム真理教のの犯罪は宗教信仰者が社会性が失われ狂信的信仰にいかれ現実と夢想の区別なく起こした事件と明らかに違う、という「違い」はなんであろうか?
私は、この問題には筆者らしからなさを感じてしまいました。
後半分の自分のことを語っていることや哲学の先輩のことを書いているあたりは、この人らしく、すぱっといく感じです。
脳死の扱いのこの人のコメントは厳しい。当たり前といえば当たり前です。自らの生のために他人の死を望む、この魂って下品というのは確かにそうかもしれない。あくなき生への執着、死にたいする覚悟を求めることは無理なかも。まわりも募金をも利用するし、それを望む臓器希望者方は、確かに角膜の提供は聞きますが、自分自身が同じように臓器提供者にはなるわけではないというあたりが、高格な魂か否かって悩みますね。善く生きるということの基準からすれば、他人の死を望む人が、臓器移植という形で死を決めようとすること、難しいとともに人間はポンコツ機械でここまでなら全損、ここまでなら部品(臓器)交換可能という機械論的考えなんでしょうか?
親族家族以外の臓器提供をもらうにふさわしいか否か、審査基準を持ち、個人契約するという考え方。筆者らしいって思いました。私も、家族・親族以外の方に臓器提供する気など起きません。そう思える人が他にいたのは、少しほっとしましたが・・・。
最後の
「謎の日々」「天才の生き方」は名文です。
自己性の謎は、解消されるどころか深まるばかりである。しかし、謎は謎ゆえに解消することは最初から期待されていない。全宇宙の全現象がすべてにおいて成立している心というものの謎、それをなお「自己」とみなすのか、あるいは「どう」みなすのか、それ自体がその都度の謎の姿であろう。「謎の日々」
生とか死とかそう思われているんものほど確かなものではじつはない。自分と宇宙というものも、そう思われているほど別のものではなく、案外同じようなものである。地上の時間は宇宙の時間に比べてあまりにも短いということをしばしば人はするけれどもそんなことは決してない。地上の時間と宇宙の時間は、この人生の、この魂の最深部において、明らかに交わる。間合い交わったそこをこそ努めて生きようとすることが地上においても永遠に生きるというそのことだ。「天才の生き方について」
与えられた仕事や与えられた境遇は、凡人から天才まですべて違うけれども、そんなことは、本当は、どっちでもいいことなのだ。与えられたそれらを、より善く生きようと努めること、結局は、それしか、我々にはすることはないからである。「天才の生き方について」
感動的です。哲学っって倫理ってやはりこの「善く生きる」ことこれに最終的に尽きるというのが納得です。