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読書と日常がメインの日記です。


by watarajp

読了「無敵のソクラテス」「般若経典」

 池田晶子氏の「無敵のソクラテス」
中村元氏の「般若経典」を読了しました。

「無敵のソクラテス」相変わらず面白いし深いですね。ソクラテスは池田氏であり、クサンチッペも池田氏なのだが、絶妙にいけてる。ソクラテスは、ひたすら相手を問うことで、相手の無知やこの「私」や生と死の問題についてつねに深く思考する。あるいは存在するとあなにか?自分であって自分でないこの「私」とは何か。ここにすべてが行き着く。今しか生きれない時間の無限性と有限性、いろんな意味で哲学をわかりやすく、というか考えることの楽しさを教えてくれる。

 「ソフィーの選択」確かに昔売れていた本だった気がするが、、彼を哲学教師であって哲学者でないと言い切るのも確かにそうだと思う。哲学史と自分で物事を哲学するのは違う分野だし、きっても切れないけど違う。この人の言わんとするところはいつもはまっていていい。

 フェミニストやオーム、エコロジストや脳科学者それらとの対談が成立すれば、こうなるんだろうとまったくそのとおりに思う。「失楽園」ブームや性教育論議、これらも面白い。池田氏は、ソクラテスの再来か、とほくそ笑んでしまうのである。難しい言葉を使うより、自分の言葉で自分で考える、これがいかに今欠けているかって思う。

 ブッダとキリストとソクラテスとの対談は笑ってしまった。こんな風に分かる人はお互い分かるように会話するんだろうか、と。プラトンは、高校生のとき、「ソクラテスの弁明」や「饗宴」など読んだけど、難しかった気がします。再度、読んでみたいと思いました。また「国家」も。

 それぞれの癖みたいなの確かにありますよ。哲学者とはいえ、生身の人間なんですからね。しかし、もしもそいつが本物の哲学者なら、時代や個人やその癖なんてのとは無関係に、いや、まさにその癖によってこそ、同じ事柄をわれわれは考えているんだってこと、知っているはずなんだ。

プラトンに言わせたこの言葉が言い得て妙です。

プラトン的に「真実在性とはなにか」
ソクラテス的に「正しさとはなにか」
アリストテレスなら「存在するとはどういうことか」
デカルトなら「考えるとはどういうことか」
スピノザなら「存在はどうしてこうなのか」
カント、「どうしてこうとしか考えられないのか」
ヘーゲル「考えているのは私じゃない」
ニーチェ「考えているのは私だけだ」
ハイデガー「考えているのは存在だ」
ウイットンゲンシュタイン「私であるとはどういうことか」

筆者が書いている言葉ですが、いいですね。

デカルト、スピノザ、ハイデガー、ウイットンゲンシュタインは学生のときの教養科目の「倫理学」でであったのが初めてで原文を紹介しながらエッセンスヲ教えてくれたことを思い出しました。今思えば、高校時代まったく分からなかった哲学の領域を始めて触れたのが大学の教養だった気がする。その意味で、わたしの学生生活は、専門科目の授業はほとんど出ませんでしたが、古典を読むこと、そこから自分が学ぶと同時に、彼らの書きたっかた実存に迫り、自分も考える・思考するということをしたかった時間があった。という意味で大学生活は有意義だったのかもしれないと思いました。
 ほとんど忘れてしまったのは知識としての勉強だったのかもしれないと後悔も含め。
by watarajp | 2011-04-12 11:04 | 読書